お知らせ内容
6月14日 メッセージより
2020年6月14日(日)久宝教会創立61周年記念礼拝・花の日こどもの日礼拝(聖霊降臨節第2主日礼拝)
メッセージ「埋もれた宝」より
牛田 匡 牧師
聖書 マタイによる福音書 13章44-50節
今回の聖書の話はイエス様がガリラヤの貧しい民衆たちに語られたたとえ話です。2000年前の人々はこれらのたとえ話をどのように聞いたでしょうか。例えば、「畑に隠された宝を見つけた人は ~ その畑を買う」とありますが、そもそも「畑」は売買の対象ではありませんでした。大地の実りをもたらす畑、土地は神のものであり、売ってはならないと律法で定められていました。しかし、現実には貧しさのあまりに先祖伝来の土地を借金のかたとして手放さざるを得ない人々も多く、たとえ所有地を売っても、いずれ買い戻さねばならないとも定められていました。そしてイエス様の話を聞いた農民たちは、貧しさの故に土地を奪われ、小作農となっていた人たちがほとんどでしたので、彼らにとって「畑を買う」とは、「先祖伝来の土地を買い戻す」という意味に聞こえたことでしょう。
ですから、このたとえ話は、「宝は、あなたたちが毎日汗水流して働いている畑に、他でもないその場に埋まっている。それは持ち物をすっかり売り払ってでも、その土地を買い戻したいと思うくらいに、大切なものなんだ」という意味だったのではないかと思います。続く真珠のたとえも同様です。「大変高価なもの」の代表として真珠と言われていますが、イエス様はそれを「貧しい人々」をたとえたものとして語っています。即ち「天の国は、他でもないあなたがた一人一人を尋ね求めている。いつも権力者から虐げられ、搾取され、価値のない者として扱われているあなたたちこそ、高価な真珠であって、その一人のために、全ての持ち物を売り払ってもいいだけの価値がある」ということでした。
埋もれた宝も、高価な真珠も、それらは神様から生かされている私たち自身の中にあるものです。自分には出来ない、価値がないと周りから言われるままに、思い込んでいたり、自分でも決めつけたりしていると、それらは決して見つかりません。しかし、神様はそんな私たち一人一人を、宝とし、真珠として下さっています。土地が神のものであるように、私たちの命も神のものです。私たちの中にも、隣人の中にも、埋もれた宝はあります。それを隠したままにせず、互いに大切にしていきましょう。一見、無価値とされているものの中にこそ、神様の力が働き、価値あるものとされていく。倒れていた人が再び引き起こされ、立ち上がらされていく。それらのことの証人として歩んで行くことが、創立61周年を迎えたこの教会の夢なのではないかと思います。私たちは今日も、神様から生かされている者として、その導きに従って歩み出して行きます。