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4月28日 メッセージより

2024/05/04(土)

2024年4月28日 メッセージ「霊と肉、理性と本能」より

水谷憲牧師

聖書  ガラテヤの信徒への手紙  5章16-26節

 この手紙は、パウロの教えに反する者によってすっかり惑わされていた人々にあてて書かれた。「割礼などなくともイエス・キリストに結ばれてさえいれば、ユダヤ人でなくとも救いにあずかれるのだ」と教えていたのに、自分がいなくなった途端に反対者に惑わされ、互いにいがみ合いまで起こしたりしている。「お前たちは一体何を聞いとったんか、もう一回説明するけどもやな」とパウロは怒りを隠しきれないままに書いている。「私と逆のことを教えるような奴は、天使だろうが呪われてしまえ」と。めちゃくちゃ怒っている。

 そして本日の箇所。「あなた方は洗礼によって、律法という鎖からの自由を与えられたのだから、その自由を、自分の好き勝手ではなく、霊の導きに従った自由とせよ」というもの。そして、「避けるべき肉の業」を行う者は神の国を受け継ぐことはできない、霊に導かれて歩む中で「霊の結ぶ実」を結ぶことができるならば、そもそもそこに律法など必要ないのだという。しかし「肉の業」に列挙された事柄に共通するものは何か、「霊の結ぶ実」とされている事柄に共通するものは何かを考えずに、ただこれらのことだけを避け、また実行できればよいとしてしまってはいけない。

 パウロの挙げる「肉の業」はいずれも、神と人・人と人との関係を破壊し、隣人の存在を切り捨て、尊厳を踏みにじり、傷つける行為ではないのか。反対に「霊の結ぶ実」とは、神と人・人と人との関係を回復し、つなぎとめ、人をかけがえのない存在として大切にしていく行為を意味しているのではないか。キリストは、商売の家と化していた神殿をひっくり返したり、安息日に手のなえた人を見ながら放っていたりした人々に対して怒った。そのような不義に対する怒りまで、パウロの言う肉の業と同じものと見るべきではない。私たちは、見えないところで痛む人にこそ目を留めたイエスの視点を持つことなしに「私は救われた、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけた」などと簡単に言って、まやかしの平和を喜び、それに対する怒りまでも肉の業として禁じるような者とならぬため、いつもイエスを思い浮かべ、イエスならどうされたかと想像しながら、肉の業と霊の結ぶ実とを注意深く吟味しながら日々を過ごしていきたい。

 

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