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6月23日 メッセージより

2024/06/26(水)

2024年6月23日 メッセージ「種蒔きが先か、刈り入れが先か」より

牛田匡牧師

聖書 ヨハネによる福音書 4章 27-42節

 田植えの季節となり、近隣の田んぼにも小さな苗がきれいに並んで植えられています。この時期に植えられた稲は、暑い夏を越えて、秋10月頃には収穫の時期を迎えます。およそ4カ月で小さかった苗が、大きな稲穂となるというのは、本当に不思議なことです。「種蒔きが先か、刈り入れが先か」……、数か月後に作物を収穫することを期待して、種を蒔きますから、当然「刈り入れ」よりも「種蒔き」が先です。ですが、今回のお話の中で、イエス様は「(畑の小麦は)すでに色づいて刈り入れを待っている」(3536)と言い、「種を蒔く人と刈り入れる人は別である」(37)と言われました。これはどういうことでしょうか。

 そもそも農業とは、自分たちが食べるために、種を蒔き、お世話をして、収穫をするものでした。蒔く人と刈り入れる人が同じだからこそ、汗水を垂らして苦労する甲斐があった。しかし、貨幣経済の発展や、植民地支配の構造の下で、農民たちは次第に搾取され、貧しくされていき、やがて先祖伝来の畑や土地を奪われ、小作農や日雇い労働者となっていきました。つまり自分たちが苦労して蒔いた種や、育てた農作物が、他人によって刈り取られ、収穫され、転売されていったのです。そのような社会、時代背景の中で、イエス様は弟子たちに対して、「あなたたちは刈り取りを奪われる側ではなく、むしろ刈り取る側であり、しかも蒔く人から搾取するのではなく、蒔く人と共に喜ぶ道が備えられているのだ」と語られました。弟子たちが既に白く色づいた小麦を収穫する人々であるならば、その麦の種を蒔いたのは誰でしょうか。それは神様ご自身に他なりません。種を蒔く人は神様ご自身であり、私たちはその豊かな収穫を刈り入れるために、呼び出され、遣わされているのだというわけです。

 全ての命は神様によって創られ、豊かに祝福された存在です。ですからそれらの命が輝いて生きていけるように、抑圧されたり、押しつぶされたりしないように、守っていくこと、それが刈り入れに連なるということなのではないかと思います。日々に様々な事に追われて、心を奪われてしまっている私たちには、一つ一つのことの中に秘められている神様の業、色づいている実りに気付けていないことが多くあります。今一度それらに目と心を向けて、豊かな刈り入れの業へと神様から遣わされて行きます。

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