お知らせ内容
7月28日 メッセージより
2024年7月28日 メッセージ「私を思い出して下さい」より
牛田匡牧師
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章 17-29節
「お盆」の季節には、ご先祖様に思いを馳せるという方もおられると思いますが、聖書の中にもイエス様が言われた「〇〇の時には、私を思い出して下さい」という言葉が記されています。それはいわゆる「最後の晩餐」の場面での言葉で、そこから教会では「主の晩餐(聖餐式)」の際に、「イエス様の死に様と生き様を思い起こす」ということを大切にしています。しかし、原点としては「パンを裂き、ぶどう酒を分け合って飲む度に」ですから、つまり「日々の食事を通して、私を思い出して下さい」と言われたのではないでしょうか。なぜなら、イエス様の生き様というものが、まさに世から差別され見放されていた人たちと一緒に食事をして、共に生きたものだったからでした。食べるということは、生きるということと直結しています。ですから、食事を分かち合うというのは、言い換えれば命を分かち合うことであり、イエス様とその後に続いた教会は、共に食べるということをとても大切にしていました。にもかかわらず、パウロの時代のコリントの教会では「一緒に食事をする」と言いながらも、早く来た人たちだけで先に食べてしまい、貧しさの故に仕事が長引き遅れて来た人たちや、食事を持参できなかった人たちが、遅刻して到着した時には既に食べる物が無いというような有様でした。パウロはそのような教会に対して、それでは共に礼拝をして、共に食事をしたことにはならない、と手紙を書き送りました。
聖書の中で、目に見えない神様は、王、勇士(戦士)、裁判官、羊飼いなど、様々なイメージで表現されていますが、多様な神のイメージの一つに、「知恵」というものもあります。そしてその「知恵」は、賢い人や思慮深い人にではなく、むしろ「思慮なき者」「浅はかな者」に対して、「食卓を整えたから、こちらに来て私のパンを食べ、ぶどう酒を飲みなさい」と呼びかけます(箴言9:1ー5)。「小さくされている者に対する選び」は、聖書の中で一貫している神様の視点です。命の糧の分かち合いである食事の度に、「私を思い出して下さい」と言われたイエス様の言葉を心に留め、その後に従う歩みへと、たとえ小さな一歩ずつであっても、私たちは今日もここから神様と共にあって支えられながら、押し出されながら、歩みを進めて参ります。