お知らせ内容
8月11日 メッセージより
2024年8月11日 メッセージ「なにか違う」より
水谷憲牧師
聖書 ヨハネによる福音書 7章 40-52節
「違和感」という言葉は、辞書によると「自身の感覚や認識と現実の状況が一致しない時に生じる心理的な不快感」などと説明されている。そんな「違和感」を感じる瞬間はあるだろうか。仮庵祭に、イエス・キリストは人目を避けて上って行かれた。ユダヤ人が殺そうと狙っていたからだ。イエスも初めは、私はこの祭りには上って行かないと突っぱねていた。しかしその後イエスが仮庵祭に身の危険を冒して行ったのは、やはり今こそ公然と福音を語っていかねばという気持ちになったからかもしれない。仮庵祭でも、イエスの噂はいろいろとささやかれていたが、ユダヤ教の指導者たちを恐れて誰も公然とイエスについての議論はできなかった。だからイエスは神殿の境内で語り始められた。世の行っている業は何かおかしいと。
このイエスの姿は人々の心を動かし始めたが、イエスのことを疑う者もいた。ユダヤ教の祭司長やファリサイ派の人々だ。彼らはイエス逮捕のために送った下役たちが手ぶらで戻って来ると叱り、下役たちをかばうニコデモにも「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい」と偉そうに話している。彼らは聖書をよく知っているだけに、無知な皆は惑わされているのだと思い込んでいる。しかし対照的に「無知」な下役たちは、イエスと出会い、変化を見せている。下役たちは本来、イエスを捕らえて来ればよいだけだった。しかし彼らはあえてイエスを捕らえず、それを正直に報告したのだ。彼らは「違和感」を感じたのではないか。イエスを前にした自分たちには、彼を捕らえることが何か違う気がしたのだと。その命令違反は、大変勇気のいる行為だったろうが、しかし同時に、下役たちにとっては、非常に新鮮な、人間性の回復の第一歩でもあったろう。彼らのそんな「違和感」と「変化」を理解できたのは、イエスと出会ったことのあるニコデモだけだった。
私たちも、キリストとの生きた出会いによって変えられてゆく。そのために、聖書の1つ1つの物語を「私の物語」として読んでゆきたい。そこでイエスが語った言葉を「私にかけられた言葉」として受け取ってゆきたい。そうやって、常にキリストの言葉――キリストが他でもない私に向けて語ってくださった言葉――に耳を傾けながら、日々いろんな瞬間に感じる「なにかちがう」という違和感を大事にして、イエスを捕らえなかった下役たちのように変えられてゆきたい。