お知らせ内容
8月18日 メッセージより
2024年8月18日メッセージ「何が罪か、法より大切なもの」より
牛田匡牧師
聖書 ヨハネによる福音書 8章 1-11節
今回のお話は「姦淫の女とイエス」という小見出しが付けられているお話でした。当時の律法では「姦淫」は死刑とされる重罪でしたが、その現場で捕らえられた女性が、イエス様の前に連れて来られました。もしイエス様が「赦してやりなさい」と言えば、「律法を無視した」ということで告発され、「律法通りに殺しなさい」と言えば「罪人の仲間」と言っておきながら、やはり女性を殺すのかと言い立てられる状況でした。しかし、イエス様は「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(7)と言い、その結果、女性を連れて来た人々は、一人また一人と去っていき、誰もいなくなりました。ここで語られている「姦淫」の詳しい内容は分かりません。仮にこの女性が性暴力の被害者であったとしても、当時はそれも「姦淫」として断罪されました。この女性は、自身でも「姦淫の罪を犯してしまった」という罪責感を感じていたでしょうし、もうすぐ石を投げつけられて殺されるかもしれないという恐怖に怯えていたことでしょう。周りから誰もいなくなった後、イエス様は彼女に「誰もあなたを罪に定めなかったのか」「私もあなたを罪に定めない。行きなさい」と言われました。ここで言われている「罪に定めない」という言葉は、元は「判断しない」という言葉です。ですから、イエス様はここで「誰もあなたが有罪が無罪かを判断しない。だから、私も判断しません」と言われたわけです。そう言いながらイエス様は彼女に対して「だから、あなた自身も、自分で自分のことを罪があるかないか、穢れているかどうか、なんて判断する必要はないのですよ」と伝えているのではないかと思います。
いつの時代でも、人が作る法律は、間違うことがあります。本来の目的が見失われて、誤って運用されることもあります。聖書に記されている「律法」も、本来は命の神に従うため、命を守るためのものであったはずですが、それがいつしか人を断罪するために用いられるようになってしまいました。それでは本末転倒ではないか。イエス様の数々の言葉と振る舞いは、そこにメスを入れ、厳しく糾弾されたものでした。「私はあなたを判断しない。あなたもあなた自身を判断せず、そのままで行きなさい」。このイエス様の言葉から、私たちは法や規則、ルールをその表面、字面を単になぞるのではなく、その奥にある本来の目的、目の前の一人一人の人、小さくされている命に目を向け、命を守り、命を生かすために、今日もここから、罪を定める固定観念から解放されて歩み出して行きます。