お知らせ内容
8月25日 メッセージより
2024年8月25日 メッセージ「酒に酔い『痴れ』るな」より
水谷憲牧師
聖書 エフェソの信徒への手紙 5章 11-20節
「キリスト者」とは一般的に「ナザレのイエスを救い主と告白し洗礼を受けた人」。そこには「善良で穏やかで、怒らず、清く正しい人」といった印象がありそうだが、現実には洗礼を受けたからといって、めざましく善良な人間に生まれ変わることができたなどということはほとんどない。「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい」(11節)。キリスト者でも不品行のみならず、後ろ向きで内向きな者が、この手紙の読者の中にもいたのだ。それを「ひそかに抱え込み、ふくらませ、ついに最悪の形で白日のもとにさらされる前に、それを自分から神の前にさらけ出し、祈りつつすべて委ねよ」とパウロは私たちに勧めている。また「明るみに出す」とは「指摘してやる」という意味でもある。隣人が、悩みを暗闇で1人で抱え込まないよう促すこと。神だけは私たちのどんな悩みや告白をも黙って受け止め、私たちを永遠で新しい命に導く光に変えて下さるのだ。そのことを信じて、すべてを神に委ね祈ってゆくことが、私たちの目指す信仰の姿と言えるのかもしれない。続く「眠りについている者」とは、光を避けて暗闇に留まっている者。神の愛が分かっていながら背を向け、死者の仲間入りをしてしまっている者。パウロは、そのような状況に陥ってしまっている者に呼びかける。「起きよ、立ち上がれ。キリストがあなたを照らし、あなたをきっと死の苦しみからいのちの喜びへと救い上げて下さるのだ」と。
イエスをキリストと信じると告白したキリスト者であっても、悩みや惑いはあるし、後ろ向きになることもある。そんな時にただより頼んでいく対象としての神が自分のそばにいるかどうか。クリスチャンになったところで簡単に悩み苦しみから解放されるわけではない。祈りを持って神の前に自分の思いを明らかにすることから始めていきたい。神はきっとその思いを汲み取り、逃れの道を備え、私たちの重荷を輝かしい光へ変えて下さる。
パウロは「酒に酔いしれてはいけません」と言う。「酔いしれる」の「し」は「痴」。痴漢の痴、愚痴の痴。「ばか」という意味。「ばかになるほどに酔っ払うな」ということ。酒は飲んでもよいけど、ばかになるほど飲んだり、飲まずにおれないようなら、身を持ち崩す前にいっそのことやめてしまった方がいい。お酒は楽しく、ほどほどに。