お知らせ内容
9月22日 メッセージより
2024年9月22日 メッセージ「ヨルダンの向こう側」より
水谷憲牧師
聖書 ヨハネによる福音書 10章 31-42節
現代はいつからか、大変ストレスがかかりやすい世の中になってしまっている。動物園の動物だって、ストレスで禿げ上がったり仲間をいじめ殺したりするくらいですから、職場や学校や家庭の人間関係、また学歴・職歴・近所の評判など「現代の目に見えない檻」の中で暮らすことを強いられている私たちのある者が、それに耐え切れず心身共に病気になったり、爆発して様々な事件を起こしたりするのも、当然の帰結かも知れない。キリストはどうだったのか。神の子だから、ストレスとは無縁だったのか。話は変って、キリストの血液型はO型だった可能性が高いらしい。O型は全ての血液型に輸血できるが、輸血してもらえるのは同じO型のみ。与えるばかりで受けることがほとんどなかったキリストは、きっとO型なのだ(冗談)。しかし、神の子ではあるが、人として生まれた方である以上、いつも教えを与え、励ましを与え、慰めを与え、癒しを与え、気付きを与え、希望を与え…返ってくるものと言えば、ほとんどは誤解による悪評や中傷、敵意、策略、暴力など。ストレスが溜まらんはずがない。
今回の箇所において、イエスは言う。「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい」。いつも「ただ信じなさい」と言っていたイエスらしくない、消極的な言葉に聞こえ、何だかかわいそうに思えてくる。そしてイエスは、ユダヤ人たちの手を逃れて、いずこかへ去っていくのだ。イエスは一体どこへ向かったのか。それはヨルダン川の向こう側、ベタニアという町。それは、イエスの宣教活動の出発点。どんなにがんばっても全く人々に理解されず受け入れられなかったイエスは、しばらく活動を離れて自分の出発点に戻り、自分を受け入れてもらえる体験・話を聞いてもらえる体験・認めてもらえる体験・信じてもらえる体験によって、また自分の宣教の現場へと戻っていく力を与えられたのではないか。私たちも時には、心がざわつくところからいったん離れ、もう一度自分の最も基本・自分の出発点に引き返して、力を回復する機会を持つ必要がある。願わくは私たちの守るこの礼拝のひと時が、イエス・キリストにとっての「ヨルダンの向こう側」のような場になれば、と願う。