お知らせ内容
7月5日 メッセージより
牛田 匡 牧師
聖書 ヨナ書 3章10節-4章11節
『ヨナ書』の全体を眺めてみると、全人類を救うことを望まれる神と、それとは逆に自分中心でしか物事を考えないヨナとが、対照的に描かれている物語であるように感じます。神に向かって怒る自分勝手な預言者……、それはヨナの個人的な性格の問題だったのでしょうか。
彼が遣わされたニネベという町は、紀元前8世紀頃に地中海世界を広く支配したアッシリア帝国の首都でした。古代イスラエルの人たちにとっては、自分たちの国土や民を奪った憎き敵だったわけです。そこに行って「悪の道を離れるように伝えなさい」と命じられても、当然行きたくなかったでしょうし、むしろ「さっさと滅んでほしい」というのが彼の思いだったでしょう。ですから、ヨナは「神の命令に従わず、神に対して怒った預言者」という以前に、彼もまた古代社会において暴力によって傷つけられていた被害者の一人でした。だからこそ彼は「恵みに満ち、憐れみ深い神であり、怒るに遅く、慈しみに富み、災いを下そうとしても思い直される方」である神の民族を超えた赦しと救いという判断を、素直に受け入れることができずに、怒ったのだろうと考えられます。
ここで「あなたの怒りは正しいか」と書かれているヘブライ語は、「その怒りは良いことか」「ふさわしいことか」とも言い換えられます。怒ることが悪いのではなく、その怒りは適切なのか、何に対して怒っているのか、何を目指しているのか、ということが大切なのでしょう。イエス様もまた、然るべき時には怒る方でした。相手の言動が自分の中の傷に反応して、反射的に怒り、相手に暴力を振るうのではなく、むしろ虐げられている人たちの解放のために、抑圧する側に対して抵抗の声を上げること、連帯と協働の手を伸ばすことこそ、今必要とされていることなのではないかと思います。
一昨日から九州地方では記録的大雨が続き、河川が氾濫していますし、コロナも再び感染者数が増加しています。様々な災害が立て続けに起こっているにも拘らず、社会では目の前の「いのちを守る」ことよりも、一部の人たちの面子と利権を守ることが優先されています。そのように今もなお暴力が振るわれ続けている現代ですが、そこにも神の国は来ています。様々な暴力の被害者である私たち自身が、まず癒されることを必要としています。そして私たち自身が不適切な怒りから解放されて、隣人たちのために、この手足を用いて行けるように変えられることを祈り求めつつ、今日もここから歩み出して行きます。