お知らせ内容
9月29日 メッセージより
2024年9月29日 メッセージ「人生を問うのではなく、人生から問われている」より
牛田匡牧師
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章 1-10節
良いことをした人には、良いことが起こり、悪いことをした人には、悪いことが起こる。そのような因果応報の考え方は、古今東西、世界のあちこちで考えられてきた人間の素朴な思考パターンなのだと思われますが、しかし、実際には善人も、突然の事故や病気、自然災害に見舞われることがあります。そのような現実を、どのように受け止めることが出来るのでしょうか。今回の聖書の言葉の中には、この地上での肉体を持つ命と、天における永遠の命について記されています。そのように考えると、この地上での限りある生活は、無意味であり、早く天国に行きたいと考える人たちが出てきてもおかしくありません。しかし、パウロはそのような人たちへの反論として、「体を住みかとしていようと、体を離れていようと、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(9)と語りました。それは言い換えるならば、肉の体、地上の命も決して無価値ではない、確かに生きる意味があるということです。
第二次世界大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺を生き延びたヴィクトール・フランクルは「私たちが人生を問うのではなく、むしろ私たちは人生から問われている」と言いました。不幸や逆境、絶望状態の中で「どうしてこんなことが起こるのか」と人生に向かって問いを投げかけるのではない。むしろ逆に、自分が人生の方から「お前はこの現実にどう向き合うのか。この現実から、どのような意味を見つけ出して行くのか」と問われているというのです。人は、たとえどのような状況にあっても、自分の人生から問いかけられている存在として、自分の人生の意味を見出して行くことが出来る。起こってしまった過去の出来事については、それ自体は変えることは出来なくても、その過去が持つ自分自身にとって意味は、その都度、新しく意味付け直していくことが出来るのです。
強いかと思えば弱かったり、しっかりと立っているかと思えば揺らぎ迷っていたりするような頼りない肉の体を生きている私たちです。そのような私たちを支えて、生かしてくれるのが、天から与えられる永遠の命です。私たちが常に、自らの歩みを振り返り、そこに新たな意味を見出して行く時、そこにはいつも共にいて下さる神様がおられます。私たちが不幸な人生を嘆き、人生を問うのではなく、むしろ人生の方から、私たちが問われていると考え始める時、私たちはもうすでに神様と共に一歩を、踏み出しているのではないでしょうか。