お知らせ内容
10月6日 メッセージより
2024年10月6日 メッセージ「キリストを生きる」より
水谷憲牧師
聖書 フィリピの信徒への手紙 1章 12-30節
毎日、新聞を開いてもテレビをつけても、犯罪のない日はない。闇バイト、あおり運転、隣人トラブル。親が子を、子が親を殺すような事件を見ても「またか」と感じてしまう始末。しかし、エデンの園を追われたアダムとエバの末裔であるそんなしょーもない私たちの中にも、誰かの命を生かすために自分のことを忘れて身を投げ出した人々が、昔も今もわずかながらも確かにいた。アウシュヴィッツ、アメリカ黒人解放運動、東日本大震災、能登半島地震、この夏の豪雨災害においても。もしもそんな崇高な行為をなした人物が自分の身近な人物だったとしたら、その生き様・死に様は、世間が忘れても自分の心だけには深く、いつまでも残って行くだろう。一方で私たちは、私たちの知らないところで私たちのために命を投げ出して下さっていたキリストの生き様や死に様に、どれほど影響を受けているのだろうか。
パウロは「私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(1:21)と言う。「生きるとはキリストである」とはどういうことか。新共同訳聖書の小見出しには「私にとって、生きるとはキリストを生きること」とある。それは「キリストのように生きる」「キリストと共に生きる」こと、と私は理解する。私たちと親しかった人・愛する人・自分によい影響を残した人が、いつまでも自分の心のうちに生き、自分と共にあるのと同様に、キリストと共に生きるということ。いつでもキリストと共にあって、こんな時キリストならどうされたか、キリストならどう言われたか、キリストはどう思われるかと、常にキリストと一緒に人生を歩んでいくということ。もちろん、キリストは愛と優しさを貫いたために苦しめられ痛めつけられ、十字架につけられた方だったから、私たちが本当にキリストと共に生きようとするとき、同じような思いをするときもあるかもしれない。しかしそれも、私たちの知らないところで私たちのために命を投げ出す、そんなことまでして、こんな私を永遠の滅びから救い上げてくださったキリストへの恩返しであることを思って、乗り越えていきたい。そんな私の姿から、新たに「キリストを生きる」者の連鎖が生まれ広がってゆくなら、キリストの犠牲も、誰かの命のために身を投げ出したあらゆる人々の命も、本当に報われるだろう。