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10月13日 メッセージより

2024/10/13(日)

2024年10月13日 メッセージ「立場主義を越えて生きる」より

牛田匡牧師

聖書 士師記 11章 2940節

 今回のお話は、「もし戦いに勝利して、無事に帰還できれば、最初に迎えに出て来た者を、神に犠牲(いけにえ)として献げる」(31)という誓願を立てた士師エフタが、戦勝して帰還した後、彼を出迎えた一人娘を、誓願通りに犠牲にしたというお話でした。この物語から、私たちはどのようなメッセージを受け取れるでしょうか。例えば、「エフタもその娘も、親子の絆、愛情よりも、神との約束を優先させたから立派な信仰だ」という解釈や、「そもそも人身犠牲は異教的な習わしで律法で禁じられていたので、その誓願を耳にした彼女が、父親にそのような罪を繰り返させないために、自らの命を差し出した」という解釈もあります。しかし私は、このお話は「信仰的な美談」などではなく、「繰り返してはならない悲劇」として読むべきではないかと思います。

 聖書に限らず、古代社会では、ほとんどの女性は男性の所有物として扱われました。そしてエフタも、娘自身も、それを当然と思い込まされていたために、娘が犠牲となることに同意できたのでしょう。しかし、そのような「男性中心・お家中心主義」「立場主義」が、聖書全体を貫く命の神のメッセージなのか、というと、もちろんそうではありません。聖書が伝えているメッセージは、誰かが犠牲になることではなく、全ての命が活き活きと生きられるように、解放されることです。この士師の時代の後も、動物を犠牲として献げる祭儀は続けられましたが、次第に形骸化していきました。そして新約聖書では、十字架に架けられて殺されたイエス様自身が、神に献げられた最大にして「最後の犠牲」となられました。イエス様が十字架での死から三日後に引き起こされたということは、言い換えれば、もう「犠牲を繰り返す必要はない」ということです。

 現代の日本でも「お家中心主義」「立場主義」が根強く残っています。自分を犠牲にして、国家や社会、会社や組織に尽くすことが、称賛され、美徳とされて来ました。しかし、その思い込みは正しかったでしょうか。暴力は新たな暴力を、犠牲は新たな犠牲を生みます。私たちは誰かを犠牲にしたり、自身が何かの犠牲になったりすることを、許してはなりません。知らない間に私たちを真綿でくるむようにして、息苦しくさせているような立場主義を乗り越えて、解放されて生きられるように、今日も私たちは神様と共にあって導かれて行きます。

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