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11月3日 召天者記念礼拝メッセージより

2024/11/09(土)

2024年11月3日 召天者記念礼拝メッセージ「なげかわしくてごめん」より

水谷憲牧師

聖書 マタイによる福音書 23章 25-33節

 エルサレムに迎え入れられたキリストは、神殿の境内で様々な論争をする中で、律法学者やファリサイ派の人々を非難する。「杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちている」。かつてイエスは、食事の前に手を洗うかどうかで議論になった時に、「口から出てくるものは、心から出てくるので、これこそ人を汚す」と言われた(マタイ15章)。悪意や下心に満ちた顔つき、うそや悪口を吐く者の顔つきの汚らわしさ。

 自分の醜さが周囲にばれることを恐れ、自分の内側の汚れが知られないよう、あえて外側を美しく取り繕っても、そんな化けの皮はいずれ剥がれる。いくら清く正しく見せ、善い行いをし、聞こえよい言葉を口にしても、私たちが自分の内面を清めてゆく――自分を優先する代わりに他人を尊重すること、自分が正しいと思い込むことなく謙虚になること、人の粗を探すのではなく人の良さを探すことのできる目を持つこと、自分の欠けた部分に恐れず目を向けること――そのような努力なしには、必ずメッキは剥がれ、先祖が犯した罪の升目は満たされ、自ら地獄の裁きを招くことになるのだ、それが災いでなくて何であろうか。だからこそ、まず内側をきれいにせよ。

 ここでイエスが批判する律法学者・ファリサイ派は、私たちの代名詞でもある。私たちも彼らと何の変りもない。いや、「オレはこいつらとは違う!」と言っている時点できっとアウト。そんないわゆる偽善者たちにイエスは「災いあれ(聖書共同訳)」と言う。しかし、呪いの言葉はひどすぎないか。確かに私たちは偽善者のそしりをまぬかれない。しかしきっと、律法学者もファリサイ派も、あなたも私も知らぬうちに偽善者になってしまっているだけなのだ。キリストの呼びかけによって私たちが目を覚まし、そこから抜け出すことができるかもしれない。だから呪いをかけるのではなく、「あなたたち偽善者はなげかわしいことだ(本田哲郎神父訳)」、といったぼやきにとどめておいてくれれば、私たちはまだ頑張れそう。私たちは「へいへい、どうせ偽善者ですよ」と開き直るのではなく、イエスからの問いかけを謙虚に受け止め、天上にある先輩たちやキリストから「災いあれ」ではなく「なげかわしいなぁ、お前たちは」ってぼやかれていると思って、「ごめんなさいイエス様」っていう気持ちで、内面から清めてゆく努力をしていきたい。

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